ただそれだけの夜

 他人が見たらきっと笑ってしまうぐらい当たり前の事を、
 当たり前に飲み込めるようになった。

 睡魔のしっぽを引きずり込み損ねた。二つ並んだそれぞれのベッド。薄暗い部屋の真ん中に幅を利かせる二つの間に隙間はなく、きっちりとくっつけられている。
 その気になればすぐにでも越えられる程度の境界線だ。見えない壁があるわけでもない、拒否されるはずもない、そんな状況。俺が体を起こしさえすれば全てが済む話だとわかってはいるけれど、その透明な壁の向こうで目を閉じるクラウドの目尻は穏やかに閉じられている。
 簡単に言ってしまえば、起こしちゃ悪い。
 ただそれだけの事だ。

 もうこの星に存在しなくなった街が繁栄していた頃は、たとえそれが真夜中だったとしても帰路の暗さに困ることなんてなかった。こうこうと照るライトと切れない人波をかき分け、たどり着いた神羅ビルはどんな建物より明るく大きくそびえ立っている。時々、守衛当番のクラウドに片手をあげていた。
 その点ミッドガルに比べれば、ここ、エッジは随分とおとなしい。そんな気がする。
 深夜には人の出入りはまばらで、街灯のライトもそこまで明るいわけではない。時々聞こえるのは小さな子どもの夜泣き声と、ハイウェイを通り過ぎるトラックの音。若い子たちの空気を読まない笑い声で時々びっくりする程度には静まり返った街の片隅で、寝起きを繰り返している。
 隣で眠るクラウドの顔が穏やかであれ、と覗き込む。いつもなら重力に反抗してトガる髪はしな垂れていて、頭のラインごとカーテン越しの月明りに光る。ぼんやり浮かび上がる額から鼻先、合間に見える睫毛は伏せっていて、呼吸に合わせてゆっくり体ごと上下する様子を黙って見続けた。
……どうしたもんかな。
 多分、今名前を呼べばすぐに反応してくれる事はわかっている。だから余計悩んじゃうんだ。どうしてもいつかに見たほぼ同じ光景を思い出してしまって、それで躊躇する。俺がいくら名前を呼んでも、返事してくれない時間を一緒に過ごしすぎた。
――その時は、こんなにあったかいベッドの中ではなかったけど。
 あの時みたいに必死になって呼ぶ必要はなくなった。その安心感をうまく自分で飲み下せないまま、こうやって毎日を過ごしている。いつでも答えてもらえるからこそ、今わざわざ起こす必要もないかな、って所だ。
 それにしたって体と心ってのはなかなか一緒に動いてくれるわけでもない物で、すうすう寝息を立てるクラウドの唇を見ているだけで、むくりと沸き上がる感覚は徐々に大きくなる。抱きたいかと言われると、そこまででもない。ただ触りたいな、とは少し思う。
 開いているのか閉じているのかわからない程度に脱力された薄い唇。
 その一点をジッと見つめているだけで起きてくれたらどんなに楽だろう。
 寝てる、よなあ。
「……」
 静かにブランケットをめくり上げて起き上がる。クラウドの寝息を邪魔しないようそっと床に足をつけて立ち上がり、寝室のドアを開けてその場を後にした。ガラスコップに手を伸ばして注いだ水を一気に飲み干すと、喉の奥を通り過ぎる冷たい感覚が気持ち良い。
 ひたり。一瞬耳元を通り過ぎようとしたかすかな感覚に、反射的に指先が緊張する。
「ザックス」
「うわぁびっくりした!」
 飲み込んでため息を一つつこうとした瞬間、気づいたのとほぼ同時に声を掛けられ、危うく水をぶちまけてしまいそうになった。いくら得意だからって、こんな時にまで気配を消すなって。
「あ、悪い……眠れないのか」
「んー、ただ喉が渇いただけ」
「俺にもくれないか」
「ん」
 自分が飲んだままのグラスを濯ぎもしないまま、もう一度蛇口を捻る。とぽとぽと注がれたそれを手渡して、どちらからともなくテーブルを前に座る。数秒の無言の時間の後に、クラウドが口を開いた。
「寝ないのか」
「んー、目ぇ冴えた。クラウドは?」
「俺も」
 ザックスの足音のおかげで、と微かに笑う。
 おかしいな、足音消したはずなんだけど。
「それでも起きるだろう」
「……起きるなあ」
 お互いに軽くため息を吐きながら笑って、それからまた静かになった。草木も眠る、って言葉がまさにピッタリな深夜にルームライトも付けないまま、向き合って座っていることに何の意味があるんだろうか。眠れなくたってベッドに入って目を閉じていれば、そのうち寝落ちするはずなのに。
 ソルジャーの悲しい性は今も健在で、それが己の睡眠をの邪魔をしてる。
 ただそれだけの事なんだけど。
「……泥のように寝るって、どんな感じか忘れたな」
「それ!わかる!」
 思わずクラウドの顔に向けて指さした。生き様的な問題ってのはもちろんあるけれど、誰かに揺り起こされて声をかけられて、それでようやく起きるなんてことをあまりした覚えがない。
 いや、正直言えば2nd昇格した辺りは何度か寝坊と遅刻を……いやいや。
 ないわけではないけれど、ほんの少しの物音で目を 覚ますのは当たり前のことだった。
 クラウドだって同じだ。だから俺のひたひたな足音如きですら、目が覚めた。
「あ、でもさクラウド、俺とした後は?眠れるんじゃない?」
 目を見開きながら眉間に皺を寄せたクラウドの表情をしっかり見て取れる程度には、暗闇に目が慣れ始めている。
「……聞くな」
 伏せた視線が右斜め下に移動して微かに息を漏らす。一連の流れは完璧にシミュレーション通りで少しだけ嬉しくなった。俺がどう言えばどう言う反応を示してくれるかなんて、今更悩むようなことじゃない。その顔が見たくて言ったようなもんだ。
「でも、よく寝られる気はする」
「メンタルにはいいらしいぜ」
「……ああ、悪くはない」
 俯いたままのクラウドはぼそぼそと小さい声で相槌を打ち、手の中に包んだままのグラスを緩く握りしめた。
 泥眠に関してはほぼ諦めてるところはあるけれど、それでも、何も考えずに夜通し眠れるようにはなった。神経を尖らせたまま目を閉じるだけで暗い時間をやり過ごす夜はもう来ない。どちらからともなく手を伸ばしてシャツの裾を引っ張れば応えてくれる嬉しさもあるし、朝になればお互いの寝顔を 見て安心するのがほとんどだ。
「……寝るかぁ」
「ああ」
 他人が見たらきっと笑ってしまうぐらい当たり前の事を、当たり前に飲み込めるようになった。
それを幸せと定義する気にはまだなれないけれど、どちらからともなく立ち上がり、言葉も交わさないまま狭いベッドにくっついて眠るのは、好きだと 思う。
 音もなく歩く先にはベッドが二つ並んでいたけれど、無言で入った先は一つ。
「……狭いな」
「んー……でも、あったかい」
「ああ」
 それだけ交わせばもう何も言う言葉はなくなって、ぴったりくっついた体に腕を伸ばす。
 うまい具合に俺の胸元に収まったクラウドの体を緩く抱いて、そのまま目を閉じた。






fin