スイートルームの鍵は無し
「いらっしゃいませフェア様、お待ちしておりました」
ケピ帽をきっちりと被り、見るからに重そうなコートを着込んだドアマンが恭しく頭を下げる。回転扉の向こうに透けて見えるのはカーペット張りの静かな床と、温かい照明の射すロビーフロア。
クリスマスシーズンに最高の時間を過ごそうとするマダムやそのパートナーがふかふかのチェアに沈み、抑えた声で談笑を交わしている。
扉をくぐり、その人たちの仲間入りをしたとたん、近くに居た年配の男が俺達をちらりと横目で見た。
「どーも」
敵意はない事を伝えようと少しだけ笑いながら会釈をする。ふん、と鼻息を鳴らして居直った男は、その対面にいる女性にたしなめられ、少しバツが悪そうにこちらから視線を外し、コーヒーに手を伸ばした。
「……大丈夫、行こう、クラウド」
少し居心地が悪そうに俯いたクラウドの背中にそっと手を置き、一歩踏みだした。指定されたドレスコードに合わせたジャケットとタイは、この日のためにそれぞれがお互いに選んで贈ったものだ。
自分で見ても、相棒を見ても、うん、悪くない。
「クラウド、そのジャケットすごく似合ってる」
「……ありがとう。ザックスも」
お互いがお互いを褒めあいながら案内された席へと座る。円卓の真ん中には小さなキャンドルが優しく火を揺らしていて、その傍らには赤いヒペリカムの花。沢山の蕾が色濃く影を落とす白いテーブルクロスの上には、照明でキラリと光るカトラリーが丁寧に並べられている。
「本日はクリスマスディナーでお伺いしておりましたが」
「ああ、それで大丈夫」
「かしこまりました、何か苦手な食材はございませんか?」
「何でも食べられるよな」
「ああ」
軽く会釈をしたスタッフがその場から離れる。客数の割に静かな店に合うように、俺たちも心なしか声を顰めて言葉のやり取りを交わす。
前もって伝えていた通りに出されたシャンパンがしゅわしゅわと音を立てながら、グラスに注がれた。サービスマンは大事そうにそのボトルを抱え、すぐさまその場を後にする。
「クラウド、乾杯しよう」
「ああ……乾杯」
お互いに相手よりもグラスを下げる。下げて、下げ返して、いつまでたっても涼やかな音を立てないそれに二人で少し笑って、ようやく同じ高さで触れ合った。
スペシャルディナーを終え、デザートを待つ間。俺の右ポケットにずっと隠していたプレゼントを出すタイミングを見計らいながら、どことなくそわついたクラウドの名前を呼ぶ。穏やかな表情ではあるけれど、どことなく落ち着かないような、そんな様子で当たりを見回していた。
「……クス」
セレブリティなホテルの最上階。
夜景の見えるレストラン。
ポケットの中には、最高クラスの部屋へ入るための鍵。
「ザックス……」
シェフの粋を尽くしたディナーを堪能した恋人達はスイートルームの鍵を開け、お互いに寄り添うようにしてベッドへと――
「ザックス! 手が止まってるぞ!」
――なだれ込むなんてのは、所詮幻想だ!
クリスマスディナーなんて大それたものじゃなくてもいいんだ。当日じゃなくたっていい。ただ、時間を作って、せめて一度ぐらいは二人でゆっくり食事したいって思っただけだ。
だけど悲しいかな、俺たちは依頼された事なら何でもやるなんでも屋。
基本的にはそういったイベント当日は、無茶な依頼に忙殺される。
大体の依頼は汚れ仕事で、綺麗なお姉さんにバラをお届けだとか、ちょっと畏まった服での要人警護なんてものは、なかなかある事じゃあない。現に今だって、そのクリスマス当日に販売するためのチキンの下処理手伝いに追われている。
「手を止めている暇なんてないぞ」
「悪い……でもさ、この鶏の山見てたら、さすがに妄想の世界にでも入りたくなっちまうってもんじゃない?」
「ないな」
短い言葉を突っ返しながら、クラウドはひたすら鶏の処理を続けている。昨日はひたすら二人でキュッキュと鶏の首のあたりを締め続けていて、今日は綺麗に皮だけになったその山から内臓を抜き続けるだけの作業。
つまり、ものすごく辛い時間が続いている。
華やかなクリスマスの裏には、こんな涙ぐましい努力があるんだって事、みんな知らないんだろうな。
「知っていたとしても、気にしないだろう」
「ああ……興味ないね、ってやつか……」
「……」
クラウドが絶対零度の視線をこちらに向けながら、引きずり出した内臓をゴミ箱に叩きつけた。
「悪いクラウド、俺多分結構疲れてる。だってさ、昨日のあの……首をキュッてする瞬間、すげえ苦手だった」
クラウドは平気なんだろうか。もう何も感じないとはいえ、体の内側を掻きだされるのはきっと鶏側からしたっていい気分じゃないだろう。
この作業は不毛だ。誰も幸せになれない。チキンを食べる人たちの幸せのために、俺たちと鶏たちは散々な気持ちになっているって事、いつか誰かに聞いてもらいたい。
そう思いながらそっとクラウドの方へ視線を向けると、珍しいぐらい目を丸くした金髪の相棒がこちらを見つめている。
「ふっ……」
「え? なに?」
「……ふ、はは……っ、元ソルジャーが……何言ってるんだ……っ」
口元を抑えようとして、汚れた手に気づいたクラウドが顔を背ける。ひくひくと体を揺らしながら、小さな声を漏らして笑い始めてしまった。
「ふふ……っ」
「なんだよ、そんなにおかしいか? そういうクラウドだって、結構顔がげんなりしてたじゃない!」
「悪い、でも、あんたの口からそんな言葉が出るとは全く思ってなかったから……」
てのひらが使えないまま笑い続けるクラウドが、捩った二の腕で目元を擦る。指先からはぽたぽたと赤い汁が漏れているって言うのに、涙を拭わなきゃいけない程笑う姿が可笑しくなった。
「笑いすぎだって! こらクラウド、笑いすぎ!」
「悪い……ふふっ……」
年に一度見られるかどうかレベルで笑い続けるクラウドの表情。この状況では肩を抱き寄せて笑いすぎだって、怒ることも出来やしない。
だけど、それでもいいと思った。
クラウドが笑っているのがただ嬉しくなって、つられて笑った。
翌日もまた、同じように鶏たちと戯れる作業だった。腹の中に米だのなんだのを詰め込みながら、皮の表面にちろちろと残っている毛を見つけ次第むしり取るだけの時間は、正直、ものすごく苦痛だった。
昨日あんなに笑っていたクラウドの表情も、さすがに若干曇り始めている。
お互い無言で鶏を手に取り、処理を終え、空いた箱に放り投げる。それだけの単純作業がひたすら続く間に交わした会話はほんの二言三言で、一向に動かない時計の針をちらちら盗み見る事すら億劫になって来た。
「ザックス、あのさ……」
「皆まで言うなクラウド、言いたい事は大体わかる」
ふう、と小さくため息を吐いたクラウドは、作業を終えるまでに再び口を開く事はなかった。もくもくと作業する間、作業所の窓の向こうを通りすぎる人たちの表情を見る気にすらならない。
だけど、お互い口を開かなくとも大体の思惑を理解出来るような間柄でよかったな、なんて事ぐらいは、考え続けている。
(クラウドも、同じように思ってくれていたら嬉しいな。)
「二人ともありがとうよ、助かった。報酬だ、受け取ってくれ」
「ありがとうなオッサン、良いクリスマスを……って、そんな余裕ないか?」
そんな事はないさ、チキンの売り上げで豪遊よ、と返された俺たちに手渡されたのは、こっちが要求したよりも少ない金額が包まれた封筒と、それはそれは立派なチキン――になる予定の、生の鶏。
ビニール袋に雑然と放り込まれたそれは、袋の中でぐにゃりと脱力したまま、物も言わずに寝そべっている。
全力でお礼を伝えた後すぐに背を返し、二人そろって同時にため息をついた。
「精神的に疲れた……なんか報酬も少なくない……?」
「俺だって……つーか、当分鶏なんて見たくねえ……」
肩を落として歩く十二月の空気は冷たく、二人並んで吐く息は白い。街のあちらこちらが色とりどりのライトで飾られていて、街路樹どころか普段は冷たいコンクリート打ちっぱなしのビルまでが、電飾を光らせてクリスマスを祝っている。
「ザックス、行こう」
「ん? どこに?」
「……?」
怪訝な顔でこちらを見返すクラウドを見つめ返す。
鶏肉の詰められたビニール袋が、風にあおられてガサガサと音を立てる。
「あんた、わかってなかったのか」
「あー……ごめん、全然わかってないっぽい」
「……大体の事はわかるって言ったじゃないか」
眉間に皺を寄せながら少し困ったような顔で笑うクラウドは、別に怒っているわけじゃないみたいだ。俺の言いたい事はわかるって言ったのに、と半笑いで復唱するクラウドの頭に手を置いてぐしゃぐしゃにかき回しても、今なら許されるだろうか。
「怒るなよー! 悪かったって!」
「やめろ、別に怒ってない」
「……で、どこに連れてってくれるんだ?」
俯いて、笑う。ふいと顔を上げた青色の目が淡く揺らぐ。
昨日あんなに抑えきれなかったそれとは全然違う笑みを浮かべたクラウドが、口を開く。
「……高級レストランの、フルコースディナーだ」
*
「いらっしゃいませストライフ様、お待ちしておりました」
連れて来られたのは、クラウドの宣言通りのレストラン――もとい、バーだった。何度も補修を繰り返し、その度に新しい木をつぎはぎして作られた看板に書いてある店名は、セブンスヘブン。温かい照明が照らすフロアも同じように木造で、足を前に出すたびに、コトコトとブーツが床を打つ。
「おなじみの、ってわけか……あれ……うわ、すげえ」
ただ、いつもと内装が随分違う。丸いテーブルがいくつも並んでいる。真っ白いテーブルクロスは膝元まで垂れ下がり、その真ん中には赤や黄色、色とりどりの花が飾られてい た。
窓際にはオーナメントが吊り下げられ、優しい色のライトがちかちかと点いては消える。トナカイのカチューシャに赤いケープを掛けたマリンが席へと案内し、デンゼルがメニュー表を差し出した。
「本日のメニューは特別です! 二人は、お客様第一号!」
「クリスマスだからってさ。ティファがあんたたちに実験台になって欲しいんだって」
「デンゼル、実験台じゃなくてご招待だってば!」
ケープを翻したマリンが店の奥へと戻って行く。お任せでいい? と聞いてきたデンゼルは、こちらの返事を聞いたか聞いていないかわからない速さで、その後を追っていった。
テーブルの上に置かれたカトラリーは、俺が妄想していた世界のそれと同じようにキラキラと光る。話には聞いた事のあるフィンガーボウルとやらまで用意してある辺り、古典的なフルコース、って奴だろうか。
「……ナイフとか、ちゃんと使えるかな、俺」
「高級レストランに行きたいっていってたのはあんただろう」
「いや、使えないわけじゃないけど……あ、やばい、俺ちょっと緊張してきた」
「……あんたでも緊張するなんて事あるんだな」
そう返すクラウドも、椅子への座り方からしてどことなくぎこちない。いつもなら俺よりも速いペースでグラスを空にするはずのクラウドが、出された食前酒でさえ驚く程ちびちびと口に付けている。あんなにゆっくり時間を作りたいと思っていたのに、いざこうしてその時間を迎えてしまっ たとたん、うまく言葉が出て来なくなった。
冷菜を細やかに置いたオードブルにはエディブルフラワーが飾られ、一口サイズのキッシュやエスカベッシュが並ぶ。いつもならフォークでひと突き、大口を開けて食べ終えてしまうであろう物なのに、今日はなんだか難しい。
料理に顔を落としつつ視線だけでクラウドを見ると、そっちも俺と同じように、わざわざ小さなキッシュをさらに半分に切って、口に入れている。
「クラウド、知ってたのか?」
「いや……来て、とは言われていたけど、ここまでとは……」
こんなことならもう少しましな格好に着替えてくればよかった、と呟いたクラウドに、黙って相槌を打つ。
鶏肉とさんざん格闘したその足で来てしまった事に、少し罪悪感を持った。
「お料理はお口に会いましたでしょうか?」
聴きなれた声に顔を上げると、料理長――ティファが微笑んでいる。もごもごと口を動かしながら首を縦に振るクラウドに続けて、親指を立てる。爪の間にまだ少し残る赤色の汁が目について、苦笑いで誤魔化した。
「店主さんから話、聞いたよ。二人ともすごく真面目に仕事してくれて、助かったって」
「いやあ……真面目って言うか……」
確かにもくもくと作業していたのには間違いないから、悪い事をしたわけじゃない。だけど、なんとなく言葉に詰まる。対面のクラウドも緩く眉間に皺を寄せながら、グラスを空にした。
ティファの料理はどれもこれも最高だった。牛蒡のポタージュは舌先から喉の奥を通り抜け、体を温めてくれる。メインディッシュのチキンコンフィには二人して顔を見合わせてしまったけれど、味に信頼がおけることはわかり切っていたから、何の問題もなくたいらげた。
「うまいな」
「うん、うまい」
何度か、その言葉を交わすだけで十分だった。
ガチガチに固まってしまっていたはずだった俺達は、最高のご馳走にあっさりと陥落。酒が進む。何気ない話をする。ただそれだけで、俺がこの間妄想していたそれよりもずっとずっと、いい時間を過ごす事が出来た。 必死で仕事してたどり着いたのは、いつもと同じだけど少し違う、穏やかで温かい店と食事。
「……ちょっと早いけど、いいクリスマスになったな」
「ああ」
お互いに送り合った服なんて着ていない。徹底的に気を配られたサービスを受けたわけでもない。スイートルームの鍵なんてどこにもないけれど、これで十分、幸せだと思う。
幸せになれたんだと、思う。
込み上げる感情が抑えられなくなり、深く息を吸って笑う。空になったグラスをそっと置いたクラウドも、同じように笑った。
*
「昨日はありがとうな、ティファ。すげえおいしかった。宣伝は任せといてくれ!な、クラウド」
「ああ、全力で宣伝する」
「ありがとう、お願いね! ……で、ザックス、クラウド。二人にもう一つお願いがあるの」
「なになに? なんでも受けるぜー」
「ティファの頼み事なら、何だって聞くさ」
モーニングを出した流れでテーブルに両手をつき、真剣な顔で依頼をしたいと言うティファに、軽い気持ちで返事をする。いつも穏やかに笑って俺達を見守ってくれているティファが、珍しく見せた険しい顔だった。
「あのね……調理前の鶏肉が、いっぱいあるの。二人も食べるの、手伝ってくれない?」
「……え?」
なんでも、鶏肉屋の主人が仕入れをミスした事で、必要以上(三倍だって!)の鶏を仕入れてしまったらしい。そのままにしては置けないからと、エッジにある飲食店すべてに無理矢理押し付けて回っているそうだ。
「うちではそんなに使い切れないって言ったんだけど、サービスだからって言われると断れなくて……冷蔵庫がいっぱいで、冷凍庫もいっぱいで、困ってるの」
「なあ、クラウド……それってもしかして」
「……俺たちが、必死で捌いたアレ……か」
フォークを手に握りしめたまま、固まるクラウドと目配せする。
俺たちはこの数日間、朝から晩まで鶏肉を見つめ続けて来た。脳内に作り上げた超高級ホテルのレストランにも行けず、指先を真っ赤にしながら、作業場の寒さと格闘して頑張ってたんだ。明日から当分、見ることはないと思っ ていたってのに。
「二人ともよく食べるから、とりあえず十キロ分ぐらい渡しても大丈夫だよね!」
「……ザックス、どうする」
気まずそうな顔のクラウドが、視線で俺に助けを求めて来たけれど……どうするもこうするも。
――正直もう、生の鶏は、見たくない。
当分、見たくないんだけどなぁ!
fin